あなたも一度はアパルトヘイトという言葉を聞いたことがあると思います。
かつてイギリスの植民地だった南アフリカではアパルトヘイトという政策が施行されていました。
学生時代に授業でアパルトヘイトのビデオをみて衝撃を受けた方も多いのではないでしょうか?
では、アパルトヘイトとは一体どのような政策だったのでしょうか?
この記事ではアパルトヘイトについての歴史や内容、廃止までの経緯を詳しく紹介していきます。
アパルトヘイトとは?

まずはアパルトヘイトとは何かについて紹介していきます。
アパルトヘイトとはアフリカーンス語で「分離」を意味する言葉です。
アパルトヘイトという政策は南アフリカ共和国で1948年から1994年まで施行されていた人種隔離政策のことです。
具体的には白人を優遇するために有色人種に対して政治的または経済的に差別的な措置を行った政策のことです。
具体的には有色人種には選挙権がなかったり、移住区間が完全に区別されてきました。
このように、差別の対象となった有色人種の人々は長い間悲惨な生活を送ってきました。
そんなアパルトヘイトという世界で最も有名な人種差別政策が約25年前まで南アフリカの地で行われてきたのです。
それでは詳細について紹介していこうと思います。
アパルトヘイトのきっかけや歴史

まずはアパルトヘイトの歴史について紹介していきます。
アパルトヘイトの始まりから終わりまでのざっくりとした流れについて、紹介していきます。
実は僕は南アフリカに滞在していた経験があるのですが、アパルトヘイトミュージアムなどに行ったり、黒人居住区で経験談を聞いたりしたので分かるのですが、流れを知っているだけで教科書とは違った生きた学びになるので面白いですよ!!
アパルトヘイトは何故はじまったのか?

アパルトヘイトの背景には南アフリカを植民地にしていた白人の存在があります。
南アフリカはそもそもオランダの植民地でした。
オランダからイギリスに植民地が譲渡されたことがキッカケで白人の人口が徐々に増えていきました。
その際に南アフリカで金鉱山の開発が積極的に行われていたこともあり、白人達は安価で大量の労働力を確保したいと考えました。
また同時期にオランダ系白人の間での貧困問題が発生し、彼らが黒人対して強い差別意識を持つようになります。
彼らと政府や資本家が団結し、黒人が団結し、力を持つことを防ぐためにもアパルトヘイト政策がシステム化されていきました。
こういった経緯で徐々に白人たちに都合の良い制度を作り始めました。
つまりアパルトヘイトは「労働力を調達するため」と「白人たちの優位性を保つため」に始まったのです。
アパルトヘイトはどのように終わったのか?

そんなアパルトヘイトはどうして終わったのでしょうか?
アパルトヘイトの終わりを紹介するのに欠かせない人物としてネルソン・マンデラという人物がいます。
1998年、ネルソン・マンデラは南アフリカの小さな村で生まれ、キリスト教徒として育ちました。
ネルソン・マンデラは指導者として白人政権に対しての反対運動を始めました。
1994年に「アフリカ民族会議」に参加したことをきっかけに、彼の反対運動は本格化していきます。
彼の運動は非暴力主義を徹底して貫いていましたが、1960年代に武装闘争主義に変化していき、1962年に国家反逆罪で逮捕されてしまいました。
1962年に逮捕されてから1990年までの約30年もの期間を彼は刑務所で過ごすことになるのです。
彼は2畳ほどのスペースでも決して希望を失うことなく、自己研磨を続け、アフリカーナーの歴史や言語を学ぶなど、相手への敬意を崩さなかったそうです。
後に彼は「刑務所で成熟した」と語っているため、逆境さえもプラスにとらえてしまう心の強さを感じます。
1990年に国連や周辺国の協力もあり、釈放されまれました。
釈放の際には10万人もの聴衆が祝福したと言います。
釈放後も当時の白人政権の大統領デラークと共にアパルトヘイト撤廃運動を続け、1994年に南アフリカ史上初めての全人種による選挙で大統領に就任しました。
彼のすごかったところは白人に対して「仕返し」をせずにアパルトヘイトを終わらせたところです。
2013年に95歳で生涯を終えましたが、今でも国中の人から尊敬され続けています。
ネルソン・マンデラ氏の運動が世界を巻き込み、アパルトヘイトの廃止へと導いたのです。
アパルトヘイトとラグビーの関係

南アフリカといえばラグビーを連想する方も多いかもしれませんが、実はラグビーもアパルトヘイトとは密接に関係しています。
もともと南アフリカにラグビーを持ち込んだのは白人たちでした。
よって南アフリカの代表チームであるスプリングボクスは白人のみで形成されており、代表チームのエンブレムは長きにわたってアパルトヘイトの象徴としても扱われていました。
そんな背景もあり南アフリカではラグビーは白人のスポーツ、サッカーは黒人のスポーツと考えられてきました。
ネルソン・マンデラが大統領に就任後、仕返しに不安を感じる白人たちの心を掴むために、スプリングボクスの応援を始めました。
1995年以降は黒人の選手が代表チームに参加するなど、徐々にラグビーチームでの人種間の壁は壊れていきました。
1995年の自国開催W杯優勝時にネルソン・マンデラ大統領が優勝トロフィーを当時のキャプテンに手渡す瞬間はアパルトヘイトの終わりを象徴するシーンとして語り継がれています。
また、2019年のラグビーW杯東京大会では、史上初の黒人キャプテンであるシヤ・コリシ率いるチームが世界一になり、南アフリカ中が熱狂しました。
元々白人が持ち込んだラグビーというスポーツはアパルトヘイトの廃止と共に、代表チームの顔ぶれが変化し、国民の人種間の壁を少しずつ壊していくなど、アパルトヘイトと深くかかわるスポーツなのです。

アパルトヘイトの具体的な内容

ここではアパルトヘイトの具体的な内容について紹介していきます。
政策の特徴はここまででも紹介しましたが、白人の優遇と有色人種への制限です。
人口登録法という法律を制定し、南アフリカの国民を白人、カラード、インド人、アフリカ人という4種類の「人種」に区別しました。
そして政治、労働、婚姻、住居、教育など様々な側面で制限を設けました。
- 政治 有色人種には選挙権がない
- 労働 白人の給与優遇
- 婚姻 異人種間の婚姻を認めない
- 住居 人種ごとに移住区間を区別
- 教育 有色人種には義務教育がない
上記のような制限が行われてきました。
そして、アパルトヘイトの影響で「裕福に生きる白人」と「貧しく生きる有色人種」という完全な二極化が進んでいきました。
上記の政策のほかにも、トイレや公園、ビーチなどが「白人用」と「有色人種用」に分けれら、それを破ったものが逮捕されるなど露骨な差別が行われてきました。
国際社会はアパルトヘイトを厳しく非難しましたが、南アフリカ政府は長きにわたって改めようとしませんでした。
その背景には、富裕層だけでなく貧困層の白人までもがアパルトヘイトに加担したことも関係していると言われています。
ここで紹介したようなことが約30年前まで現実で行われていたと思うと胸が痛くなりますね。
アパルトヘイトの現在

ここではアパルトヘイトの現在について紹介していきます。
僕は2019年に南アフリカに住んでおり、現地にも沢山の友達がいたため、教科書には書いていないリアルな世界を紹介していきます。
まず僕が伝えたいことは、政策としてのアパルトヘイトは廃止されていますが、人々の心にアパルトヘイトは今もなお残り続けているということです。
飲み屋で現地の人の話をよく聞いていたのですが、いまだに有色人種(特に黒人)に対して嫌悪感を持っている白人は大勢いました。
レストランで黒人がいる席にスタッフが来ないという光景も実際に見ました。
教科書では終わったと書かれていましたが全く終わっていません。
また、教育を受けれない黒人の子供たちは今もなお大勢います。
タウンシップと呼ばれる黒人居住区では10歳の少年が働いていました。
アパルトヘイトの影響で教育を受けられなかった世代が今、親となり子供を育てているため、勉強を教えることができる人の数が不足しているのです。
負の連鎖が続いています。
街には黒人専用と書かれた看板を掲げる店もありました。
アパルトヘイトは政策としては終わったが本質的にはまだまだ解決には程遠いという事実をこの記事を読んでくれたあなたに僕は伝えたいです。
まとめ
いかがでしたか?
アパルトヘイトについて理解できたでしょうか?
国家規模で行われた人種差別の危険性を僕たちは知る必要があります。
この記事を読んでくれたあなたが、これから南アフリカという国に興味を持ち、少しでも感がてくれれば僕は幸せです。
誰しもが抱く差別という感情に対して僕たちができることを考えることが大切です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
